「could」という言葉とデザインとの繋がりについて

1998年4月16日「could」という名前で Web サイトを始めました。
当時は大学生だったということもあり、日々の生活を綴る日記を書いていました。内向的な日記を書いていましたが、 2001年にはログ(リンクに一言添えたもの)を始め、2003年に自作 CMS をつくり、今は WordPress へ移行して Web と デザインに関わる記事を書いています。

時々「cloud (雲)」と間違われていることもありますが、なぜこんな奇妙な名前を使い続けているのか。書いている内容は変わり続けているのにも関わらず、この名前を使い続けているには理由があります。

「could」という言葉は can の過去形として扱う直接法だけではなく、「…できる(なら)」「…できるだろう」といった仮説法も含まれていて、このサイトはそんな可能になるかもしれない未来への想いを題名に込めています。私たちは常に何か違った可能性を秘めながら生活や仕事をしています。無数の可能性や過去にしてきた決断について考えたい・・・それが私にとっての could だったりします。

なぜ今更自分のサイトの由来について書いているのかというと、仮説としての「could」は今後の Web デザインを考えていく上で重要なフレーズではないかと再認識したためです。なんとなく続けていたこの名前が今更カッチリ繋がってきたような気がしています。

I like, I wish, What if

今の Web デザインを見渡すと「方法」に溢れています。UX という思想寄りの分野でさえ、方法論として話し合われることがあります。

「どのデザイン技法が適しているのか」
「今、この方法が注目を浴びている」
「このやり方が効果的である」

プロセスではなく、完成された何かへのステップの踏み方が注目されますし、流れている情報もこうしたニーズを刺激するようなものが多いと思います。

方法が重要ではないといっているわけではありません。私だって方法には注目していますし、勉強もしています。ただ、方法に固辞するあまり、最も基本的な「想いを語り合う」という部分が抜けてしまっているのではと思うことがあります。その上、マーケティングデータや調査結果という一見論理的に見えるようなものを組み合わせることで、クリエイティブを地中深くに押し込めてしまうこともあります。それに対抗するための方法論というのもありますが、目的がズレて来てしまいますし、人と向き合わなければいけない私たちの視点はより遠いところを向いてしまうことになります。

デザインについて考えたり、「良い」という価値観について共有する・・・まずはツイートみたいな短い一言から始めるのでも良いと思います。好き!嫌い!ではなく、「こうだったらいいのに」「もしこうだったらどうなるだろう」という想いを自分なりに考えて外に出してみると周りが少し変わることがあります。いろいろなデザイン思考な方法論より、まずは「could」を出し合う/語り合うということがデザインにおいて最もシンプルかつ有効なことではないでしょうか。

同じ仕事をしている人たち、同じ社会にいる人たち、同じような未来を見ている人たちが、自分たちの「could」を共有する。ちょっとしたことですが、その小さなことがグループで共有することで、大きな動きに繋がるのではないかと思います。社内で出来ないなら、Web 上の仲間に目を向けるのも良いかもしれません。

あなたが考える良い Web デザインとは何ですか?なにをもって UX と語っているのでしょうか?クライアントへ提供できる価値は売上向上だけなのでしょうか?ソーシャルメディアは本当に社会関係を意識したデザインになるでしょうか?

こうした問いかけに対しての「could」が、問題定義にも繋がったり、目的に向かって何をしたらいいのかが見えてくることがあります。もしかすると、何が理解できていないのか、ミスコミュニケーションが起こっているのかを見つける機会にもなるかもしれません。IE6のとき、ネガティブな感情だけでは先に進めないということを学びました。「ではどうするか」のスタートとして「could」のようなフレーズが前へ進むための後押しになってほしいですし、このサイトもそういった立ち位置で情報発信できるように今後も努力していきたいと思います。

Yasuhisa Hasegawa

Yasuhisa Hasegawa

Web やアプリのデザインを専門しているデザイナー。現在は組織でより良いデザインができるようプロセスや仕組の改善に力を入れています。ブログやポッドキャストなどのコンテンツ配信や講師業もしています。